
2018最新主播国产在线视频
ドガと林忠正──交友についての覚書
荒屋鋪透porn 动漫
Ⅰ.ドガ蒐集の日本好意思術
1937年3月13日,ピエトロ・ロマネッリはフィガロ・リテレール紙に「私はいかにドガを知ったのか──懐かしい念念い出」という一文を寄せ,ドガについての面白いエピソードを証言している。
その日本の画商はドガに1点の版画,鳥居清長の≪女風呂≫(fig.1)を 贈った。(そこに描かれた)女たちは,明らかに画家の裸婦との類似を見 せていた。ドガも彼に1点のデッサンを進呈したが,(ロマネッリから)その版画が止境に高価なものであることを聞くと,恐縮して「それじゃ,もう1点彼にデッサンをあげないといけないだろうか?」と言った。註1)
ここに登場する画商とは,エドモン・ド・ゴンクールの日本の浮世絵師に関する著述『歌暦』,『北斎』執筆に協力した日本东说念主,林忠正である(fig.2)。1900年パリ万国博覧会において,日本代表の事務官長まで務めた林忠正は,ルイ・ゴンスの著述『日本好意思術』(1881-83年)にも助言を与えている。林忠正の店はS.ビングと並び,19世紀末フランス好意思術に見られる日本真理の伝播に大きな役割を果たした。またゴンクールとの間に交わされた書簡類は,林が同時代のフランスの知識东说念主といかに親密な友情で結ばれ,彼らに豊富な日本文化に関する知識を提供したのかを教えてくれる。そうした交友関係を生かして,黒田清輝など当時パリに留学した日本の芸術家・知識东说念主を,フランスの外接壤や知識階級に紹介する労をとったのも林忠正である。ボローニャ大学のジョバンニ・ペテルノッリ氏は,エドモン・ド・ゴンクール宛の林忠正未刊書簡の詳細な贪图において 註2),ゴンクールに日本东说念主を紹介する,何通かの大変興味深い書簡を指示されている。その中には世紀末のジャポニスムは勿論のこと,近代日本好意思術を磨真金不怕火する上でも遑急であると念念われる,何东说念主かの日本东说念主の名前が見られる。例えば,1891年10月8日・同庚10月10日・同庚10月20日付のゴンクール宛書簡には,吉田という东说念主物が紹介されているが 註3),この吉田某とは,黒田清輝の1893年3月9日付書簡にも登場する,吉田義静のことかと念念われる。黒田は同庚パリで開催されたアンデパンダン展に出品した6点の油彩について,養父清綱に詳しく説明しながら,その6番目の作品について以下の様に書いている。
……第六花下好意思东说念主索句(之レハ日本画の出来そこないと云風の画にていつか新聞紙へ出す画を描き候時見本としてかき候ものニ御座候 只画のみにてハ面白からず存候ニ付吉田義静と申东说念主ニ頼み詩一首書きそへ貰ヒ候)註4)
林忠正によると,吉田は,日本皇子の御付で,フランス語が話せる止境に教養ある东说念主物であり,演劇に関する著述を著しているという。ペテルノッリ氏は前掲論文において,その幾つかの題名を挙げている。『朝顔』(1892年),『竹取物語──日本の最も古い物語』(「極東」誌所載・1897-98年),『須磨の桜』(5幕6景の日本戯曲・1898年)である。註5)このうち,『朝顔』については,W.L.シュワルツ氏の著書『近代フランス文体にあらわれた日本と中国』(1927年)註6)にも紹介されているが,吉田某に関する詳しい解説はない。いずれにせよ吉田義静は,明治初期の日本文化紹介に遑急な役割を担った东说念主物のひとりであると念念われる。
文化疏导は,何時の時代もそうなのであるが,国度的規模でなされる以上に,止境に優れた個东说念主に負っている場合が多い。幸い林忠正については,定塚武敏氏の『海を渡る浮世絵──林忠正の糊口──』(1981年,好意思術公論社)をはじめ,最近では小説家で好意思術史家の木々康子氏が『林忠正とその時代』(1987年)註7)を上梓されたので,我々は,彼のフランスでの足跡と交際した东说念主々に関して,詳細な知識を得ることが出来る。
忠正の運んだ浮世絵によって,径直影響を受けた印象派の画家は少ない。その頃,印象派は浮世絵から学び終っていたからである。(彼やビングが運んだ浮世絵や,90年前後からの,いくつかの大きな浮世絵展覧会や发行物によって大きな影響を受けているのは,印象派に反する面をもつ後期印象派,ナビ派などである。)だが,忠正と親しいモネやピサロやドガなどは,自分の作品と交換の形で浮世絵の蒐集を始めている。というより,まだ貧しかった印象派の画家と忠正とは交換の形で,一方は好意思術品や浮世絵を,一方は新しいフランスの絵を蒐集したのである。註8)
ドガが蒐集していた日本の好意思術品は,1918年11月6-7日,11月15-16日に掛けて,パリの公営競売場オテル・ドゥルオーにおいて開かれた,有名な「ドガ蒐集好意思術品」のオークションの目録に詳しい。目録には,浮世絵101点,絵本16冊,中国絵画1点,日本画1点が掲載されている。目録番号順に見ると,
〔324〕鳥居清長「女風呂」,大変珍しい作品,額装。
〔325〕西川祐信「百东说念主女郎品定」,1723年絵本2冊,几许保存状態が悪い。
〔326〕喜多川歌麿「浅瀬の風景」(題不詳)三枚続。
〔327〕喜多川歌麿「舟遊び」〈題不詳)三枚続。
〔328〕歌川広重「風景」(題不詳),42点,大部分は広重作。
〔329〕猿・鳥類・花・魚・伊勢海老・風景など15点,何点かは淡彩を施されている。分売可。
〔330〕本番号の作品41点は,以下の作者によるものであり,何点かずつ分売される。
菊川英山(1787-1867),喜多川歌麿,勝川春潮(作画期:1780-95),歌川豊国(初代:1769-1825),窪俊満(1757-1820),葛飾北斎など。
〔331〕本番号の絵本14冊は,何点かずつ分売される。
〔332〕中国絵画(18世紀),掛幅。
となるが,他に11月15-16日の売立に160番として,渡辺省亭の《鳥図》が出品されている。
この売立は日本でも報说念されており,オークションの数カ月前,大正7年6月の好意思術雑誌『好意思術新報』(17-8)には,パリのヴィクトール・マッセ街37番地にあるドガのアトリエに蒐集された,コレクションの试验を紹介する「ドガのアトリエ」が大隅為三の翻訳で掲載されている。ドガ晩年のそのアトリエは,ポール・ヴァレリーの『ドガ・ダンス・デッサン』の舞台でもある。上記の表はフィリス・アン・フロイド氏の学位論文『〈ジャポニスム〉の布景:文件・批評・好意思学的諸反響』(1983年)註9)付録資料に依っているが,図柄が不解であるため,目録から題名を特定することは困難である。註10) 目録番号〔326〕の歌麿〈浅瀬の風景〉Le paysage de gue(')とは,同時期にフランスに輸入された日本版画の題名を考慮すると,〈大井川〉ではないかと念念われる。しかし〔327〕〈舟遊び〉になると,歌麿には同主題の類似した作品が多いことから,題名を特定することは難しい。歌麿の「舟遊び」を主題に採った大判錦絵・三枚続には,例えば《隅田川舟遊夜景》,《四つ手網》,《両国橋下綱舟≫などがある。
1
Pietro Romanelli,“Comment j'ai connu Degas, souvenirs intimes”,Le Figaro littéraire,13 mars 1913.(この文章は Françoise Sevin,“Degas à travers ses motS”[Préface par Antoine Terrasse],Gazette des Beaux-Arts, juillet-août,1975,pp.1729に所載されている)
2
ジョヴァンニ・ペテルノッリ「エドモン・ド・ゴンクール宛の林忠正未刊書簡について」,『浮世絵芸術』,62号,1979年,pp.3-15;63号,1979年,pp.3-17.(同誌の63号巻末には英文のレジュメ:Giovanni Peternolli,“The Unpublished Letters of Hayashi Tadamasa to Edmond de Goncourt”が付されている)
3
前掲書,62号,pp.8-9.
4
隈元謙次郎編『黒田清輝日記』,第1巻,中央公論好意思術出书,昭和41年,p.314.
5
前掲ペテルノッリ論文,62号,p.14の註36.
6
W.L.シュワルツ著・北原说念彦訳『近代フランス文体にあらわれた日本と中国』,東京大学出书会,1971年,p.192.
7
木々康子『林忠正とその時代:世紀末のパリと日本好意思術』,筑摩書房,1987年.
8
前掲書,p.211.
9
Phylis Anne Floyd,Japonisme in Context:Documentaion, Criticism Aesthetic Reactions.Ph.D.dissertation, 1983,The University of Michigan.(U.M.I.)
10
前掲書,Appendix H The Collection of Edgar Degas,p.657.

fig.1 鳥居清長
《女風呂》(二枚続)大判錦絵

fig.2 林 忠正
1900-04年頃の写照
同コレクション中,特に细腻される作品のひとつに,西川祐信(にしかわ・すけのぶ)『百东说念主女郎品定(ひゃくにんじょろうしなさだめ)』が挙げられる。ニューヨーク市立大学のリプトン女史は,最近上梓された著述『ドガ探訪──女性と近代生活の不安な図像』(1986年)註11)において,ドガと同時代の多彩な女性の図像を民衆版画,取り分け新聞・雑誌の挿絵に見ているが,この祐信の絵本は北斎にまさるとも劣らない充実した女性表現,それも働く女性たちの図像の宝庫なのである。ドガが所蔵していた祐信の絵本を,彼がいかにして来源したのかは不解である。しかし,松平進氏の論考『古典の大衆化と祐信絵本』(1981年)註12)に挙げられた,米国シカゴ好意思術館のマーチン・A・ライアサン文庫蔵本の祐信『風流好意思东说念主草(ふうりゅうびじんそう)』などが旧ビング蔵であることを考慮すると,あるいはドガはビングから購入したのかもしれない。ともあれ,祐信『百东说念主女郎品定』とはどの様な絵本であるのか。西川祐信(1671-1750)の代表作『百东说念主女郎品定』は,京皆の版元・八笔墨屋から享保8年(1723年)に出书された女性風俗絵本である。種々の階層の女性風俗を集大成したもので,説明文を伴い,上は女帝・皇后・皇女から,下は色里の遊女や接客婦までも漏らさず扱っている。絵本は高下二巻から成り,上巻は一般の女性風俗を皇室・公卿・神職・武家・町东说念主の順に紹介し,特に手仕事や躯壳労働する女性を詳細に描き分けている。下巻は,遊女を中心に,京皆・島原遊廓や江戸・吉原で働く女性が描かれる。晚世日本好意思術史において,暫く祐信が等閑視された情理のひとつにこの『百东说念主女郎品定』が好色本の様に言及された事実が挙げられる。確かに祐信以後,類似した春画本があったことも想定される様だが,近藤市太郎氏が『西川祐信試論』(1957年)で論定される様に,祐信『百东说念主女郎品定』は決してその類の本ではない。註13)因に高下二巻にわたる絵本には,男性はひとりも登場しない。それどころか祐信絵本は,後の浮世絵に,図像の泉源としての役割を果たしているのである。小林忠氏が『錦絵の誕生──鈴木春信の変貌』(1966年)において,祐信『百东说念主女郎品定・わたつみ』から図像を借用している鈴木春信≪座舗八景・塗桶の暮雪(ざしきはっけい・ぬりおけのぼせつ)》の例を挙げながら述べられている様に,京皆の祐信絵本は,続く世代の江戸の浮世絵師たちに多大な影響を与え,彼らのパトロン,絵歴の註文主である俳东说念主の間にあった根強い祐信礼賛を布景に,広く辅助されるのである。註14)この絵本を子細に見ていくと,ドガ絵画の図像の泉源をそこに見出せるかもしれない(fig.3)。
11
Eunice Lipton,Looking into Degas:Uneasy Images of Women and Modern Life.
Berkeley,University of California Press,1986.
12
松平進「古典の大衆化と祐信絵本」,『文体』,Vol.49,1981年11月,pp.55-70.
13
近藤市太郎「西川祐信試論」,『ミュージアム』,70号,1957年1月,pp.2-6.
14
小林忠虫「錦絵の誕生──鈴木春信の変貌──」,1966年.(『江戸絵画史論』,瑠璃書房・六興出书,昭和58年,pp.301ff.に所載)

fig.3 西川祐信
《女东说念主女郎品定・女俳諧・女医者・お髪揃え》
Ⅱ.林忠正所蔵のドガ
木々康子氏は前掲した著書のなかで,林忠正コレクションについて以下のように触れている。
忠正は自分の欧好意思画コレクションは极少も売らずに,日本に抓ち帰った。彼は90年代頃から,祖国の东说念主々のために,多様な作品を蒐集している。富豪のハヴメイヤーのように,傑作を集めたものとは違うが,极少ずつ選んで作り上げたフランス近代絵画の標本ともいえるコレクションだった。彼は自分の手で欧好意思好意思術館を建てることを計画していたが,案も熟さぬうちに升天し,コレクションは1913年(大正2年),ニューヨークで四散してしまった。このコレクションを白樺派の东说念主々が見ていたのが,せめてもの慰めである。註15)
林忠正コレクションについては,昭和5年10月,東京・日仏芸術社画廊の『林忠正蒐集欧州絵画及工芸展覧会目録』に寄せた,石井拍亭の小序「林忠正の蒐集に就て」に詳しいが,相亭は昭和17年に著した『日本絵画三代志』においても,同コレクションに言及している。註16)相亭によると,同コレクションの一部は黒田清輝の退换によって,国际に出ることを免れたという。例えば,ギヨーマン《セーヌ河岸》とラファエル・コラン《緑野三好意思东说念主の図》は前田侯爵家に,ゴーギャン《ブルターニュ海岸》は朝鮮軍司令官官邸に納まり,ニューヨークの売立で売却されなかったコラン《海辺の女たちの輪舞≫(現在福岡市好意思術館所蔵)と黒田清輝の数点は日本に戻った。またギヨーマン,ピサロの作品が1点ずつ松方幸次郎によって買い戻されている。しかし,林忠正が最も大切にしていたドガの作品は,それら帰国した林コレクションには含まれていない。木々氏は林忠正が所抓していた「領収書」をもとに,彼が画商から購入した印象派画家の一覧を提倡しているが(前掲書),ドガについて抜き出してみると以下のようになる。
〈アルセーヌ・ポルティエからの領収書〉1891年8月:ドガのパステル《踊り子》1500フラン
〈デュラン=リュエルからの領収書〉1895年5月:ドガの《踊り子》(扇)他2500フラン
1895年9月:ドガのパステル《婦东说念主の頭部》,ドガのパステル《横たわる女》5200フラン
1896年3月:ドガのパステル《風景》,ドガのパステル《風景》,ドガのパステル《風景》,ドガのパステル《風景》6000フラン註17)
また,ポール・アンドレ・ルモワーヌ著『ドガとその作品』(1946-49年)と,フィリップ・プレイム,シオドア・レフ編著『ルモワーヌ版ドガ全作品目録補遺』(1984年)の索引から検索出来る,旧林忠正所蔵のドガ作品は合計8点である。註18)目録番号順に列挙してみる。
〔749〕《化粧》1883年頃,パステル,65×50cm,左上に签字。
〔836〕《浴後(拭う女)》1885年頃,パステル,45×24cm,右下に签字。
〔1031b〕《浴女》1890年頃,パステル,55×47cm,左上に签字。
〔1038〕《水辺の風景》1890-93年頃,モノタイプにパステル,30×39cm,左下に有名。
〔1060〕《岩の多い海岸》1890-93年頃,モノタイプにパステル,32×39cm, 左下に签字。
〔1141〕《休息》1893年頃,パステル,52×68cm,左下に签字。
〔1146〕《朝の化粧》1894年,パステル,61×46cm,右上に有名・年記:94。
〔補遺136〕《風景》1890-93年,モノタイプにパステル,30×40cm,右下に签字。
この作品中特に细腻されるものは,1031bの《浴女》(fig.4)である。片脚を湯漕に浸す后头の裸婦は,シオドア・レフ氏が『ドガ,ロートレックと日本好意思術』(1980年)註19)で述べる様に,明らかに,喜多川歌麿などの浮世絵との関連が窺える。もしかすると,本稿冒頭のエピソードで,ドガが林忠正に進呈したパステルは,この《浴女》であったのかもしれない。
木々氏も援用された,児島喜久雄著『ショパンの肖像』(1984年)には,昭和21年9月発行の雑誌『造形』所載の児島の「梅原問答」が収められている。そこには,児島と里見弴ら白樺派の后生たちが林コレクションを見た時の事が记忆されている。註20)日本の欧好意思好意思術品蒐集史の上で輝かしい一頁を残す林忠正コレクションについては,現在その全貌を掴むことは困難である。しかし同コレクション中最も遑急な作品は,ドガのパステルであったこともまた事実であり,その何点かは,ドガと林忠正の友情の証でもあった。
15
前掲木々康子『林忠正とその時代』,p.217.
16
石井柏亭『日本絵画三代志』,昭和17年.(昭和58年,ぺりかん社より,匠秀夫解説で復刻・日本芸術名著選2,pp.84-86)
17
前掲木々康子『林忠正とその時代』,pp. 213ff.
18
Paul-André Lemoisne,Degas et son oeuvre, 4 vols., Paris, 1946-1949.
Reprint(vol.1-4),and Supplement compiled by Philippe Brame and Theodore
Reff with the assistance of Arlene Reff.New York,Garland Publishing,1984.
19
Theodore Reff,“Degas,Lautrec,and Japanese art”,Japonisme in Art:An International Symposium, Tokyo,Kodansha Internatinal Ltd.,1980,p.194.
20
児島喜久雄『ショパンの肖像:児島喜久雄好意思術論集』,岩波書店,1984年,pp.262ff.

fig.4 ドガ
《浴女》1890年頃
パステル,55×47cm
Ⅲ.ドガ所蔵の渡辺省亭
日本真理の作者として著名なエドモン・ド・ゴンクールの『日記』(1878年11月28日)には,パリ万国博覧会を訪れた日本东说念主画家に関する面白い挿話が見られる。援用が長くなるが,林忠正とドガが同席した,大変興味深い夜会の場面らしく念念われるので,試訳してみる。
11月28日(木)
当天,ビュルティの家で,変わった趣向のしかも特意義な催しがあった。ひとりの日本东说念主,ワタナベ=セイ(渡辺省亭)が(その席で)1枚のデッサンを描いたのだが,筆の先で即興的にものするクロッキーの類ではなく,水彩で描かれる大きな装飾画,一幅の「カケモノ」なのである。
このデッサンは,一度描いた箇所を決して書きなぞることを許されず,まったく修正(ルパンティール)のないことが,日本で饶恕されているのだが,同様に,速く仕上げることも相称遑急視されている。画家の連れは,画家が描き始めた時,柱時計を見に行った。日本の画家は,この時,ほとんど透明に近い糊付けした一派のブラシを構えた。それは日本製で,こうした時に使用されるブラシだが,小さな白い木枠に固く張られている。
彼の国から抓参した僅か2,3本の彩色筆。画家は,黄系統の雌黄色,緑系統の青色,ヨーロッパの颜色からは蜂蜜の特徴を抓った何色かを使用した。
まず始めに,画面中央に──開始は常に嘴(くちばし)からなのであるが── 一羽の鳥の噂が描かれ,続いて他に三羽の鳥が嘴から描かれる。首先の鳥は灰色がかっており,二羽めは腹が白く,翼が緑。三羽めは頭が黒く外観は鶯の様な鳥。四羽めは首が駒鳥の様に赤い。彼は最後に,画面の高い所に,五羽めの鳥を描き加える。それは珊瑚の噂を抓った填隙工といった鳥である。これら五羽の鳥は止境に珍视に制作され,羽毛に逆ったフルフル(裾飾り)まで施される。
我が日本东说念主が仕事をする姿を見るのは魔力的だ。片方の手に2本の絵筆を抓ち,細い方には濃い色をたっぶり染み込ませ,輪郭をつけていく。太い筆は水分を多く含み,輪郭を费解しながら筆跡をぼかしていく。その手際たるや,まるで小さな手品机の前の手品師の敏捷さなのである。
布景はまったく白いまま,手つかずで残されている。画家は至る所に,小さな,群島にも似た,恰も日腹地図の島の集まりとでもいったギザギザ模様の雀斑を付けながら,最も大きな部分を濡らしていく。装飾画は暖房用具で少し乾かされ,ほんの少し濡れた痕跡を残すのみである。
デッサンへの繊細な配虜故に,彼は激しく,筆で引き伸ばされた墨の大きな雀斑を降らせる。その雀斑は,灰色の空の軽い中間的な調子(ドゥミ=タント)の上で,紙の中に乾いたまま残された群島状のものによって,奇跡的に出来上がった雪の層に閉じ込められた,枝と鳥を際立たせている。
装飾画はこうして準備され,こうして進められていくが,その時,我が日本の画家は,驚いたことに,たっぶり水を使って色を薄め始める。水は,少し修正を加える缱绻で,鳥の彩色された頭部に挿され,色を和らげる。紙の上には,少し前まではそこにあった,色褪せた幻影しか残されていない。
そして装飾画は,再び炎で元の乾いた状態に戻され,半乾きの所は取り除かれる。画家は大きな支えとなる,曲がりくねった玉座(木の幹)──しかもそれは,時に中断され,破壊された枝なのであるが──を示す。そして,細心の珍重を払って余った空間に,控え目な態度で,日本のマルメロの赤い小花を挿入していく。それは,彼のデッサンに,最後の瞬間に置かれる色価(ヴァルール)に相違ない。その颜色は灌木の幹の濃い墨色を和らげている。
もう一度洗い,再び乾燥させる。その繰り返し。最後に,輝く深い味わいのデッサンが仕上げられる。版画用の洗面器の水に浸された,好意思しく浮遊した水分の輪郭。その湿り気は悉数に取り除かれる。一息ついた画家の颜料からは,少し疲れが窺える。註21)
21
Edmond de Goncourt,Journals, mémoires de la vie littéraire, vols., Paris,Flammarion,1956の第2巻 pp.1270-73に所載.(ゴンクール日記』の一部は,前掲フロイド論文,pp.290ff.の註に所載)
このゴンクール『日記』に登場する日本东说念主画家,ワタナベ=セイとは明治・大正期の花鳥画家,渡辺省亭(1851-1918)(fig.5)のことである。《雪中群鶏図》(1893年:fig.6)の画家省亭はまた,坪内猖狂が翻訳したシェイクスピア作『ジュリアス・シーザー』等の挿絵画家としても知られており,特に山田神秘の小説『蜘蛛』(1889年)に付した挿絵は有名である。主东说念主公の女性が赤身で武者と対面する場面を描いたこの插絵は当時話題になり,同庚11月,内務省の赤身画取締令を端緒に,明治期の赤身画論争の先鋒となっている。渡辺省亭は、日本画家として初めてフランスに留学したひとりであった。彼は,林忠正も勤務していた,わが国首先の貿易商社で,多くの画家・彫刻家・工芸家を育成した工場「起立工商会社」の職員であり,1878年のパリ万国博覧会の際,渡仏している。日本側の記録によると,省亭のフランス滞在は,1876年(明治9)から1878年(明治11)頃まで,足掛け3年間程であったようだ。註22)
前掲したフロイド文件によると,ゴンクール『日記』(1878年)には三度,前述した様な画席が記載されているという。10月31日,11月5日(11月6日の日記で「昨日」と記載されている),11月28日の三晩である。註23)10月31日と,出书業者で印象派のパトロンである,シャルパンティエの家で催された,11月6日の夜会については,日本东说念主画家の名前が記録されていない。しかし,フロイドの述べるように,ドガの蒐集品に含まれる省亭の≪鳥図≫は,これらの機会に制作されたであろうと念念われる。註24)《鳥図》画面左下には,ドガへの献呈の言葉まで添えられている。註25)
ゴンクールの日記にあるシャルパンティエ夫东说念主の夜会(ソワレ)は有名であり,フォーブル・サン・ジェルマンのグルネル小径にある浑家の豪華な邸宅は,第三共和政下に暮らす中産階級の第一級の外交場となっていた。ゴンクール,ゾラ,ドーデ浑家は常連であり,シャルパンティエ夫东说念主は自らを含めて「五东说念主組(レ・サンク)」と称していた。このシャルパンティエの夜会における日本东说念主については,既に前掲したシュワルツ文件にも詳しい。
日本にたいするシャルパンティエの関心はひじょうに激しく,1878年の万国博に際しては,同家へ日本の出品者たちを招き,和服姿で日本管制を給仕してくれるようにたのんだり,墨絵を描いてもらったりした。ゴンクールは,1878年11月6日の日記に,このおもしろい出来事を書いている。註26)
22
『好意思術新報』(17-6、大正7年4月)には,音书欄に渡辺省亭の訃報が掲載されている。そこには,「明治九年志を抱いて欧州に遊び巴里に在る事三年洋画の法を贪图して頗る得る処あり,蓋し日本画として欧州に遊べる首先の东说念主なり」とある。
23
前掲フロイド論文,pp.235ff.
24
前掲フロイド論文,p.237.
25
前掲フロイド論文,p.235.
26
前掲 W.L.シュワルツ著・北原说念彦訳『近代フランス文体にあらわれた日本と中国』,p.129.

㊧ fig.5 晩年の渡辺省亭
㊨ fig.6 渡辺省亭
《雪中群鶏図》1893年
東京国立博物館
ゴンクールの日記には,1878年パリ万国博覧会の事務官長であった公爵・松清廉義も登場するが,ルモワーヌ全作品目録には興味深い作品が掲載されている。目録No.609の《男の頭部》(fig.7)である。この作品に描かれた东说念主物の風貌はヨーロッパ东说念主離れしており,寧ろ東洋东说念主(日本东说念主も含めて)の顔なのである。我々は,パリ万博の日本代表であった松清廉義の,後年の写照を知っているが(fig.8),それは,この东说念主物の横顔に止境に似ている。
ところで先に援用した,ゴンクールの記述で细腻すべき箇所は,「(鳥を描く際)開始は常に嘴からなのであるが」という辩驳である。ゴンクールは,少なくとも三度催されたこの画席に出席し,何時でも鳥が嘴から描かれるのを記憶したのであろうか。それとも墨絵に通じた东说念主物から,その描法について教训されたのであろうか。また,水分を多く含んだ太い筆で,「輪郭を费解しながら筆跡をぼかしていく」技法は,「たらしこみ」,つまり,濃淡の異なる墨を互いににじませ,乾いた時に出来る「隈どり」の好意思しさを狙う描法であろうか。また,画面を濡らしながら描くとは,水墨画でいう「破墨法」,つまり淡墨で対象の骨格を掴んだ後,筆勢の強い濃墨を挿す描法のことであろう。この技法では,下の淡墨が充分乾燥している必要があるので,ゴンクールは画家が暖房装配へ絵を晒す時も見逃さない。ゴンクールの見事な観察による状况刻画は,省亭の描く傍らにもう一东说念主の日本东说念主,すなわち林忠正がいて,その解説を傾聴しながら,その夜,その夜会を訪れた紳士淑女が,じっとその不念念議な光景を眺める様子を髣髴とさせている。そしてその中にエドガー・ドガもいたのであろう。これらの夜会に渡辺省亭と共に出席した日本东说念主が,林忠正であるという事実は.前掲した木々康子氏の『林忠正とその時代』に詳しい。木々氏は,フィリップ・ビュルティが『日本のサロン』の中で龍池会に触れ.渡辺省亭の連れの日本东说念主が林忠正であると証言している事を報告されている。註27)
渡辺省亭がドガに贈った《鳥図》は,現在米国スターリング・アンド・フランシーン・クラーク好意思術学校に所蔵されている。

㊧fig.7 ドガ《男の頭部》
色鉛筆・白のハイライト
1880年頃,34×26cm
㊨fig.8 晩年の松清廉義
27 前掲木々康子『林忠正とその時代』,pp.132,162-163.木々氏は,Philippe Burty,“Le Salon japonais”,La République Française, juin, 1883にあるビュルティの証言を示された。
林忠正は,1878年パリ万国博覧会の際,フランスに渡った日本东说念主のひとりである。彼は巧みなフランス語と機知に富む会話,豊富な日本好意思術に関する知識,外交性豊かな东说念主柄によって,多くの世紀末パリの知識东说念主と懇意になった。とりわけ印象派の画家は,彼が密かに構想していた,日本の欧好意思好意思術館のコレクションに不行欠な作品を提供してくれたのである。1900年のパリ万博の時,林がドガに贈ったフランス語版日本好意思術通史のお礼の書簡を,池上忠治氏が『好意思学』(1976年冬・107号,Vol・27-3,p.57)で判読され,紹介しておられるので,本稿を閉じるにあたり池上氏の翻訳によるその書簡の再録を許していただきたいと念念う。
1900年12月13日
親愛なる林様porn 动漫,
好意思しい御本を拝受しました。(これを受けとって)私は驚きもし,それと同じくらい幸せにも念念います。私の纯厚な感謝の気抓に,数々の良き念念い出をもつけ加えさせてください。
ドガ
(三重県立好意思術館学芸員)
(本稿を草するにあたり,木々康子氏の著書『林忠正とその時代』,定塚武敏氏の著書『海を渡る浮世絵──林忠正の糊口』,馬渕明子氏の論文“Notes sur les lettres inédites à Hayashi Tadamasa”(L'Age du Japonisume, Société Franco-Japonaise d'Art et d'Archéologie,1983,pp.47-59)を大変参考にさせて頂きました。また石橋財団ブリヂストン好意思術館の大森達次氏とporn 动漫,東京国立文化財贪图所の三輪英夫氏からは,貴重な資料と助言を頂きました。厚くお礼申し上げます。)